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  • Kentaro Osawa

ヒンデミットは踊れない



 彼はヒンデミットを聞いているうちに、軽い眠気も忘れて、ほとんど踊り出したい気持ちになった。


オーブントースターが鳴ると吸い寄せられて行ったが、パンの表面はまだ色が薄い。


「お父さん、この音楽は嫌」


 食卓に就いている中学2年生の娘が、制服のダークブラウンのリボンを結びながら言った。


「うーん、分かったよ」父親はトースターを2分に設定すると、ステレオの前に立ち、20世紀ドイツを代表するひとりの作曲家が語る人生の深淵に敬意を示すよう、ボリュームダイヤルを少しずつ絞り、やがて何も聞こえなくなった。

 

 娘はソファの上のリモコンを拾い上げてテレビをつけた。


『めざましじゃーんけん、じゃんけんぽん。えーと、俺はグーを出したので、あなたの負けでっす』

 

 テレビの向こうで、紫色に染めた髪が頭皮の上でフワフワ踊るパンクスが言った。

 

 男は朝の気分が台無しになったと思うが、しかし娘のやることには殆ど賛成する立場をとっていて、それは彼にとっては有る種の心地よい善良な気持ちを抱かせた。


 時計を見上げると、男は何かに気づいたようで、


「千郁(ちふみ)遅刻するんじゃないか?」彼は、ダイニングテーブルに向かい、悠長にテレビを眺めながらフォークで突き刺した目玉焼きの破片を口に運んでいる娘に向かって、そう言った。


誰に似たのか、亡くなった妻でも無い、それじゃあ俺なのか。


それとも若い頃に特有の不真面目さが現れているだけか。しかし身なりはきちんとしてグレそうにもない。それにはいつも安心させられる。


「いや、大丈夫。今日は部活休みだし、ホームルームも副担任だけだから」


「ああ、そう…」それならば遅刻しても良いと賛成はしかねたが、その辺りは娘なりに心得ているのだろう「しかし、成績が良くても、そういうのも進学に影響…」


「分かってる」父親を遮り、眠たく気怠そうに言う「別に、ときどきだから」


 テレビは神妙なBGMに切り替わり、この5年の間で国内では20万人の死者を出している肺病に関するニュースが報道され、毎日繰り返されるように患者数の推移や死亡者数を伝えている。


 娘は思い出したように言った、

「そうだ、来週だけど弓未(ゆみみ)ちゃんと、そのお母さんと、京浜工業遊園地に行こうかって誘われてるんだけど…」

 

 彼女は、お母さんという言葉を口にするのに少しばかり抵抗を覚えるようだった。


彼女が9歳の頃に亡くなった母親を思い出すことは今でも時々あるが、それよりも強い印象が呼び起こされるのは、母親が息を引き取った病室で、泣いていた父親の姿だった。


決して頼りがいの有るというのでもない印象の父親だったが、彼が取り乱す様子は、当時小学生だった彼女には強い衝撃を与えた。


「そうだ、言おうと思ってたんだが。昨日、電話があって家は大丈夫だと伝えておいた」彼は自分の胸元が少し気になるようで軽く触れ、

「ちゃんと、お小遣いを持たせるから」男は、それだと流石に甘すぎるか、と思い付け足した「余った分は返すように」


「分かった」彼女は嬉しくなり、自然と顔がほころびるのも止められずに、再び目玉焼きをグサグサと刺して解体し、庭で鳴いているホオジロを窓越しに見、乾燥して腐敗は免れたという感じのリンゴをついばむのを眺めた。

 

 彼女はその姿勢のまま「ありがとうね」と言い、

「ま、楽しんだら良い」とキッチンでコーヒーの準備をしている父親が戻ってくると、彼に分かるように頷いた。


「千郁、さすがに遅れ過ぎじゃないか?車で送ってこうか」




 父親と娘は、男の運転するジャガーのステーションワゴンで中学校までの、徒歩で15分ほどの道のりを走っていった。 


賭場通り3号線を東へ向かい、信号待ちで、交差点の角のタバコ屋がシャッターを開ける様子を眺めた。


カーステレオからはラジオが流れ、特徴的ですぐに彼女のものだと分かる少しハスキーな声質が、ちょうど今頃の季節にぴったりな歌詞を歌い上げ、娘はそれを一緒に口ずさんでいる。


 車を停めるために、中学校の正門をいったん通り過ぎる時、門番をしている女性教師と、彼女から何か言われて申し訳なさそうに頭を下げ、そして走り抜けていく男子生徒とが目に入り、


「ほら、もう完全に遅刻だ」と男は、目があったかもしれないその教師に軽く会釈し、校庭が面している薄暗い路地に車をすべらせた。


「大丈夫、どっからでも入れるから」彼女はあくびを堪えるように言った「慣れてるし」


「そういう問題でも無いと思うが…」


 車を止め、殆ど鬱蒼とした茂みに穏やかな日差しが遮られる。


「じゃ、ありがとうね」と娘はドアを開けて、そのまま正面玄関へは向かわずに逆の方へ行ってしまった。


 男はやれやれと思い、息をつくと、軽い胸の痛みが始まった。そのまま帰宅することもできたが、そのまま留まって、娘が駆け足で裏口へ向かっている背中で、白い縁取りの有る制服の襟がなびくのを眺めていた。




 千郁はその日、結局ホームルームには遅れたが、副担任はちょっと肩をすくめて「安藤さん、遅刻ですよ」と軽く注意しただけであり、これは彼女にとって想定内の反応で、

「すみません」と丁寧に謝罪すると、席についた。


 1限目の国語が終わると彼女は、ベランダに出ていって、中庭で駆け回っている下級生たちを眺めた。


(ほんと気楽なもんだ)と彼女は、校舎と向かいの体育館との間で声が響いて充分ここまで聞こえてくる彼らの無邪気さを聞き流しながら、もし自分が彼らだったらどんなに良かったかと考えている。


隣に彼女の友人である弓未がやってくると「ねぇ、千郁って田中くんと最近仲いいよね」と話しかけた。


「うん、けっこう話すこと多いかも」彼女は手すりを軽く叩き、虚ろな鐘のような音が鳴った。


「今度さ、遊園地行くの誘ってみたら来るかな?」


「でも弓未のお母さんもいるでしょ、田中くんは会ったことないだろうし」


「じゃあ私、広本を呼ぶから4人で行こうよ」


「ああ、それなら良いかもね」千郁は頷いて微笑んだ。


 チャイムが鳴って、二人はベランダに出ることが禁止されているのは、うちのクラスだけなのかは確信を持っておらず、念の為、数学の担当が入ってくる前に急いで教室に戻った。


 

 

 男は、ポーランドの交響楽団から委嘱を受けた交響曲を書き進めていた。着手から3年が過ぎていたが、しかしこの春には完成する予定だった。いや、完成させねばならなかった。


 10年前に亡くなった男の父は銀行員であり、また熱心な音楽鑑賞家でもあり、息子にはごく幼い頃から、クラシックミュージックを聞かせ、そしてやがては作曲家になるようにと、小学校の高学年にもなると作曲を習わせた。

 

 やがて音大を出ると、程なくして国内では最も権威を持つとされる芸術賞を受賞し、それからは安定したスピードで確実に作品を発表し続けていった。


それから20年余りが過ぎ、彼の作風は既に前衛では無かった。


後期ロマン派を思わせる書法に、彼なりのポピュラーミュージックへの造詣が加わり、それはややもすれば界隈からは非芸術との批判を受けることも有ったが、しかし大衆からの支持は熱烈なもので、彼は現在の境遇については一時期は少しばかり疑念を抱かないでも無かったのだが、しかし娘を持ち、妻の死を経て、彼が迎えんとする運命の前に在っては、素直にこれで良かったと考えるようになっていた。


 これが絶筆になるだろうと、彼は確信していた。男の体は既に病に冒されており、余命を1年と宣告されているのであった。気がかりなのは作品のことよりも、娘の今後であった。


 昨晩のこと、仕事机に向かい、大判のスコア用紙に走り書きした草稿、それは男が辿った人生そのものが迎えるフィナーレとも言える構想に従い、確かな音符を五線の隙間に書き込んでいるところだった。


娘が階段を上がって自室に入っていくのが聞こえ、男はそれを切っ掛けに、時計に目やり、彼の座っていたチェアに体重をあずけ、壁と天井がぶつかり合う角の複雑な光線の交わりを眺めていた。


 ややあってからドアがノックされ、男は返事をすると、パジャマに着替えた娘の姿が目に入った。


「お父さん、あたしこれからどうしたら良いの?」


 ドアの敷居に立って言う娘は、既にさんざん泣きはらしたことが分かる赤く腫れた目から涙を流し、その表情を凄惨に歪めた。


男は、人生がこれほどにまで絶望の姿を呈し得ることに、もはや観念して体が軽いほどだった。


 彼女は、仕事部屋には入らない様にという父の言い付けを守り、そこに立ち尽くしている。


 男は立ち上がり、来るようにと優しく伝え、親子は互いに歩み寄った。


 娘の肩を軽く叩き、

「千郁は大丈夫だ。叔父さんたちもいる、おじいちゃんとおばあちゃんも、まだ元気だ。お金のことも心配はない。つらいかもしれないが、お前なら大丈夫だ」


「あたしはお父さんがいないと嫌だ…」


 娘は前のめりに体重をすべて預け、このまま倒れるかもしれないと思われた娘の体を、父親は彼女が小学三年生になる頃まではそうすることも有ったようにして支えた。


 無力さを痛感した。こればかりは自身にはどうしようも無い。


神が与えた道であり、抗うことのできない運命だと。男は無神論者であり、彼が死を受け入れる渦中に有っても、様々な宗教が提唱する姿の神は、全くの意味を持たなかった。


彼の言うところの神は、殆ど物理現象一般の法則のようなものだった。


 そして彼が受け入れているのは、ただ運命そのものであり、然らばそれに抵抗するのでもなく、かと言って納得するのでもなかった。


「さ、もう寝なさい。2日続けて遅刻したら、さすがに駄目だ」彼は、父親の腕の中で泣いている娘に言った。