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  • Kentaro Osawa

君の膵臓をたべたいⅡ_06

更新日:3月16日

 『おおむね響けユーフォニアム / 小川不耳との直接対決』


 宮城県立ブラジリアンワックス高校の吹奏楽部の部室は20畳くらいの広さがあり、書棚、電子レンジ、応接セット、簡易ベッド、木目調のアップライトピアノ、そして壁際に寄せた大型のワークデスク(向かった壁には吸音用の有効ボードに取り付けたフックから、楽器修理に使う道具が無数に吊り下げられている)などが所狭しと置かれ、何処と無く住居を思わせるくつろいだ雰囲気を漂わせている。


この部室は物置として使われることもあり、別室に通ずるドアの片隅には弦の切れたガットギターが10本ほど立てかけられ、壁からは中世の作曲家たちが見下ろしている。


その肖像画はトリプティックの如く並べられ、いずれもがドメニコ・スカルラッティであり、これは発注の際に手違いが起きたのか、音楽室にもまた同じものが一枚飾られていた。


校舎とは独立したこの建物はもともと、80年代の半ばごろに当直の制度が廃止されるまでは宿直室として使用され、その名残は、台所や洗面所、シャワールムといった設備にも現れていた。


これを利用して、部員たちの中には泊まり込んで行く者もいたが、開け放した窓にシュラフが干され、少し離れて見ると巨大でカラフルな幼虫が窓から侵入しているような風景は、多くの教員たちにとっては見て見ぬふりの対象であった。


と言うのも、去年までは全国大会への常連であった吹奏楽部は、片田舎の偏差値も平均的な高校の銘を全国レベルにまで引き上げることに貢献しているわけであり、教員たちも、吹奏楽部および部員たちに対しては、いくらか寛容な姿勢を見せていたのだ。


しかし、2013年に就任して以来、4年をかけてブラジリアンワックス高校を強豪校にまで鍛え上げ、以来は安定してコンクールの全国大会への出場の座を勝ち取り続けた、その功労者である犬寄盛太郎(いぬより もるたろう)は、とある女子生徒との性的な関係が取沙汰され、懲戒処分を受け、現在は休職中の身である。


そして現在は、後任として杉山恭子(36歳 独身 担当科目は現国 趣味は文学作品の舞台を旅行すること 実家在住)が、少しピアノが弾けるという理由で吹奏楽部の顧問を担当しているが、いくら腕利きの演奏者が集まり、また上級生から下級生への体系化された演奏指導のノウハウが根付いていようとも、優れた指揮者なしには、強豪校も一気に落ちぶれざるを得ない。


 普段、杉山恭子は形だけでも顧問としての務めを果たすべく、放課後にはときどき準備室として使われる別室に滞在する時間を設けてはいたが、それも授業の準備や、テストの作成、そして次回に旅行するスポットを見繕っているのだった。


(え、『君の膵臓をたべたい』の舞台は…宮城県なの?それなら日帰り旅行にしても良いかも)


彼女は、ときどき気まぐれに練習室に現れると、ぎこちなく指揮棒を降り、何となく気に入らなければ、常に1ページ目が開かれたスコアを乗せた眼の前の金属製の譜面台をカンカンと叩いて、演奏をストップさせ「もっと、可愛いほうが良いんじゃないかなぁ」と的確な指示を下し、部員たちから士気を奪うことに関して右に出るものはいなかった。


 その結果として、今年度最初のいくらか規模の小さなコンクールですら、県大会での銀賞止まりの不名誉を被ることになり、不服を述べる部員たちの間では、たぶん犬寄盛太郎の騒動が何らかなの形で影響したのだろう、(印象が悪いから厳しくされたんだよ)(むしろ学校側が、ようやく落ち着いてきたところで、また校名が話題にならないように要請したんじゃない)とも噂されたが、


しかし4人の審査員たちからの審査評はいずれも申し合わせたように『手慣れた演奏ではあるが一体感に欠く』といったところに集約される内容であり、それは現状を知るものに取っては納得するしかなかった。





 練習室の窓には買ったばかりの遮音カーテンが掛けられ、今は開け放たれている。


 これは前回のミーティングのときに導入が決定されたものだった。


 その日は、顧問を交えたミーティングが行われ、久々に部員の殆どが集まっていた。


僕は紅茶を飲みに来ていて、すみの方で他の男子部員たちと、日米関係についていい加減に議論しつつ、興味深いテーマには意見を述べて協力もした。


『後輩はより地味なバッグを使うべきであり、エナメルもミントブルーも禁止すべきである』については、気の強い下級生のひとりが、


「それなら一年生の間では、もっと上品なバッグを流行らせますけど、真似しないでくださいね」と、この議題を持ち出した生徒に食って掛かり、場は騒然としたが、どうやら彼女たちの間で取り交わされる憎まれ口は、むしろ互いのメンツを維持するために、それは殆ど他の生徒たちに向けられているようにも見え、然程深刻でも無いことが分かってくると、ちらほらと口を挟んでくるものも現れ、結局は「じゃあ、派手なキーホルダーは止めてもらえる?」という妥協案に落ち着いたのである。


その次に扱われた議題は、


『真夜中の泊まりの際、部室の窓から漏れる明かりを最小限にするためにはどうするか』であり、この日のメインだった。


杉山は笑いながら「みんな、ちゃんとお家に帰りなさいね」と言っている。


このテーマについては、高校生活における校則無視の享楽に対し、色々と工夫を興じることに余念の無い男子生徒たちが活躍し、

「窓をコンパネで塞げば、一気に解決するかと。遮音の効果もあるんじゃないですか。ピロティーにいっぱい立てかけてありますけど、あれって使って無さそうだし」


この意見に対しては、多くの生徒達の間でコンパネが何かという疑問が投げ交わされたが、次第に理解されてくると、

「それって裏路地の古いマンションの一室にされてるような感じ?」

「ゴロツキのたまり場みたいだし、日中も真っ暗になると思う」

「動かすの大変そう」

 そして飛び交う反対意見に対する「そのアングラ感が良いじゃん」の意見は共感を得られずに却下される。


最終的に「遮音カーテンは遮光性も兼ね備えていると思いますよ」とコルネット担当の男子生徒の意見により、今年度より額が削減された部費を捻出して購入することになったのである。



 部屋の片隅に移動させたスツールに座って、窓外の景色を眺めながらコルネットを練習している新入部員の男子生徒が、校歌を練習するバルブを操る指先を止め、マウスピースはそのままに振り返って軽く会釈するのに、僕はうなずき返した。


避難してきた部室にいたのが彼で安心した。


彼はいつも何処と無く無関心さを発散させ、他人との間には彼のこだわりに基づく独自の距離が保たれたが、かと言い潔癖では無かった。その気質は殆ど爽やかとも言える。


地形上からして、そしてこの平屋の建造物の基礎部分がやや高くなっていることも加え、窓からはテニス場を見下ろすように一望することができた。


まだ明るい放課後のテニス場での練習風景をぼんやり眺めながら紅茶を頂くのは、僕の高校生活における至福の時間のひとつだ。


今日は男子部が手前のコートを使用し、女子部はその向こう側で練習に励んでいる。


休日の部室で1人スポーツ観戦しながら個人練習をするとは中々粋の様に思える。たぶん他には誰もやってこないだろう。


「北村先輩、どうしたんです?」彼は練習の手を止め、楽器の管を抜いてクロスに軽く打ち付けた。そうやって結露でたまった水を抜くのである。


「いや、ちょっとね。逃げてきたと言うか」


「でも今日は学校休みですよ。一体何から逃げてきたんですか」


僕は手にした署名用紙をかかげて見せ、

「君も足止めを食らったかもしれないけれど、これを配っていた人物からね」


「ああ」と彼はうなずいている。しかし納得はいかないようだ「逃げる程のことですか」


 彼が入部したことで、去年の暮れに1人辞めてしまい人数の揃わなかったトランペットのパートが4人揃うことになった。


辞めたのは他でもない、教員の犬寄盛太郎と関係を持った女子生徒であり、彼女は2週間の休学が言い渡され、復帰後に部室に私物のトランペット(Bachの180ML)をとりに来ていたところを僕は出くわし、正面から向かい合う形で黙っているわけにもいかず咄嗟に、


「今はドリカムのメドレーをやらされているよ。新任は杉山で、選曲に趣味が押し付けられてる感じ」


この話題は良くなかったと後悔していると、


思いつめた様子の彼女は口を開き「ううん、もう辞めるの」と言い「北村くん、かわりにトランペット吹いたら。あと私、ドリカムは好きなんだよね」と言い残して去っていった。


吹奏楽の楽曲にはトランペットが4人は揃わないと格好のつかないものが少なくはない。花形のブラスを切り詰める作曲家も珍しいのだ。


しかしトランペットのパートに所属する4人がそれぞれ熱心に練習するのは、コルネット、バスーン、クラリネット、オーボエであり、前回のコンクールもその編成で出場していた。


そのせいで作曲家がトランペットによる綺羅びやかな倍音の音圧を求めた場面は、想定されたものよりもずっとくぐもって響いた。


このブラスバンドに掛かるとフィリプ・スルーザの『異常な重力下に於いて壊れかけのレディオ』(1916年)といった行進曲の金字塔作品ですら、その後に彼もアメリカ軍の海兵隊員として出兵したソビエト連邦との対戦における、クリミア半島での撤退と敗戦とを予期したかのごとく、消極的な行進を思わせるものに仕上がるのだった。


彼らはアンサンブルを内省的にぶち壊すことを共謀しているのだろうか。


 僕は部員たちのあいだで”特等席”と呼ばれる革張りの一人がけのソファに深々と座り込んだ。


これは他の教室から持ち出されたもので、これに限らず元々は殺風景だった部室に持ち込まれた家具の大半は、その使用されていない教室から持ち出されていた。


まだ使えそうな備品が捨てられていることもあるゴミ捨て場に電子レンジを見つけたときは、それが科学の授業で使用されていた可能性が高く、少しばかり迷ったが、外観も内側もとても綺麗だったので(それは調理室で使用されていたものでは無い証拠だった)持ち出して問題なく動くことを確かめると、今では誰もが弁当を温めたり、機種替えで無用になった携帯電話やスマートフォンを小爆発させたりするのに使用していた。


この電子レンジで本格的な料理をする者は唯一、クラリネットを担当する女の子くらいで、彼女は小麦粉とバターと砂糖だけで、オーブン機能を使い市販品も顔負けのクッキーを焼き上げた。


そして練習をほっぽり出してティータイムに興じ、余ると、応接セットのテーブルに「みんなで食べてね 明日まではOK」と、お約束の文面のメッセージを添えて置いておくのだが、これは早いものがちで争奪戦のごとくすぐに在庫が切れてしまうため、永久に明日まではOKのクッキーが本当の消費期限を越えてしまうことは幸い起こり得ずに済んだのである。


 眼の前のローテーブルには、クッキーのかけらが残った白い皿が置かれていた。


僕はそれをゴミ箱に払って捨てると、台所で皿を洗い乾かした。


理由もなく部室に入り浸っている身としては、せめて迷惑にはならないようにと、部室の掃除は率先して行うようにしている。


 練習に戻っていた彼が演奏する、コルネットの柔らかなトーンによる今年度の課題曲(『陳腐なマーチ、腐肉のエイプリル』は、フランク・ザッパと、彼のフィルターを通してのピエール・ブーレーズからの影響が色濃く、お手軽な現代音楽風という趣であり、部員たちは技巧的な旋律を処理することに”腐心”させられている)が鳴り止み、コルネット奏者はこちらにやって来ると、僕から見てローテーブルを挟んだ向かいに二脚並べられている、それぞれ高さの違う椅子の背の高い方、教室と同じ型の方へ座った。


それは僕の座っている肘掛けのゆったりしたチェアを見下ろすような格好になるが、とくに打ち解けた関係でも無いから、もう片方の目線の高さが合う椅子を選ぶよりも得策だと思った。


 彼はテーブルの上の署名を見ながら言った、

「先輩も署名に協力するんですか?」


「いや、そういうわけでも無いんだ」…「え、君はどうしたの?」


「もちろん協力しましたよ」彼は少し奮気味に続けた「飼育小屋を作ってモルモットを8,000匹くらい飼育するなんて素晴らしいじゃないですか。動物好きなんで、署名しましたよ。実現したら最高ですね。先輩もぜひ協力しましょうよ」


「ああ、そうなんだ…しかし」僕は署名用紙の折り畳まれていた部分を広げ、手のひらで抑えて均し読み始めた「なんだこれ…」


 そこにはこんな風にタイピングされていた。


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『売店での山崎製パン ロシアパンの取扱に関する嘆願書』


みなさん私です。この署名をたくさん集めたいと思っています。ロシアパンの取扱を達成するには、

少なくとも全校生徒数の1割だから、800人くらいかな。そのくらい集めたいんです。

そしたら、さすがに売店の人たちも、よいですよ(⌒ω⌒)と従ってくれるはずです。

協力者には、もれなく《学校内でロシアパンが買える可能性によって高まる気分》が与えられます。

これは仮に(それは絶対に許されませんが)達成されなくとも、もれなく付与されるので、

署名に協力しない理由は、私には想像できません。

それは何にも代えがたき、特別な感情となるでしょう。この私が保証します。

そして勝ち取りましょう。私たちでロシアパンを。


拝啓 Fumimi Ogawa 20xx 3/12

 

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でたらめな文面や計算はさておき(うちの高校には8,000人もの生徒がひしめくことになってしまう)

それは校内の売店でヤマザキ製パンのロシアパンの取扱を嘆願する署名だったのである。


コルネット奏者は傍らに立って用紙を覗き込んでいた。

「え、騙された!ロシアパンって何ですか、”一介の女子高生”に署名運動をさせるほどに美味しいんですかね」


その言い回しには可笑しな響きが有り、僕は笑いながら、

「いや彼女は特殊なんだ、本当に」


どうやら体育の撤廃だの、インフルエンザの隔離反対だの、小川がそれらのテーマを捏造したのは、署名の部数を稼ぐ上で訴えるものが少なすぎると考えてのことか、それとも内容に引け目を感じてカモフラージュしたのか(彼女がその感覚を持ち合わせているとは到底考えられはしないが)、何にせよ相手の共感を得られそうなテーマをアドリブで捏造する姑息な手段に訴えていたのは間違いがない。


もしかすると事前に調査したのかもしれない、僕が体育をよくサボっていること…そしてコルネット奏者の動物好きについても…ん、彼の履いているコンバース、とっとこハム太郎とのコラボ商品だな...。


インフルエンザの項目を付け足したのは、最初の僕の反応が思わしくなかったからだろう。


  『小川不耳との直接対決』


 部室のドアがミシミシと音を立て始め、僕らは反射的にそちらに顔を向けた。


防音仕様のドアは普通のドアよりもずっと重たくてスムーズに開けるのはコツが必要だった。


女子生徒の多くは開けるのに少し手間取っている。


となると…嫌な予感がする。


「あれ、今日は集まらない日なのですけどね」コルネット奏者はマウスピースをぽんぽん叩きながら言った。


それは止めたほうが良いと注意したかったが、今は胸騒ぎがしそれどころでは無かった。


 開かれた扉から陽の光が差し込み、逆光の隙間から覗いている鋭利な前髪と、その下に2つ並んだ、耳を失う程の壮絶な人生を辿った野良猫のものとも思える彼女の目つきがこちらを伺っていた。


小川不耳だった。


署名用紙を取り返しに来たのだろうか。


「あれ、先輩たちって仲いいんですか」後輩が尋ねてくる。


「そういうわけでもないよ」僕はテーブルに広げられた署名を畳んで戻した。


 彼女にとって扉はあまりにも重かったらしく、じれったくなったようで、わずか20~30cmほどの隙間に体を差し込み、強行突破で潜り込んできた。


小柄な彼女には造作は無さそうだが、それでも窮屈でドアの分厚いパッキンに髪がもつれ、普段は隠れている彼女の耳が顕になった。


形の良い、少し大きな耳だった。


そのとき何か弾けるような音がし、僕の足元にビー玉大のものが転がってくる。


拾い上げるとダークグレーの貝ボタンで、窓から差し込む午後の陽光を反射して、グリーンやブルーにも輝いた。


 ようやくドアを潜り抜けた小川不耳は、僕と目線を合わせたまま、耳に掛かった髪を整え、ワンピースを叩いてシワを伸ばした。


 だらんと垂らした片手にはスティレットが刃を広げたまま握られていた。


(いや、怖い怖い…)

 

 第一ボタンが外れ、襟元がペランとめくれて、インナーの細いボーダーのTシャツが覗いている。


「北村、署名を返してよ」彼女はうつむき、めくれた襟元を指先で持ち上げて整えたが、手を離すと、だらんと元に戻った「あとボタンもだよ」


 続く