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  • Kentaro Osawa

君の膵臓を食べたいⅡ_07

 小川不耳はテーブルを挟んだ僕の正面に座った。さっきまでコルネット奏者が座っていたのとは別の席で、彼女と視線が丁度合うので、僕は少しだけ斜めになるように座り直した。


コルネット奏者は、小川から「トランペッター君、とても器用そうだね。ボタン付けといて」と命令され、楽器修理用のワークデスクに向かい、慣れない裁縫仕事をさせられている。


 彼女がそう言い付けたときに、しかしどうやって? と疑問に思っている僕らの眼の前で、彼女はワンピースのボタンを次々に外し脱ぎ去ってしまった。


彼女は下に軽装を着込んでいたが、コルネット奏者は軽い動揺が声色に現れるのを抑えられずに「縫い物はやったこと無いけど、工作は得意なので…」と彼は「トランペッター」と呼んだ彼女のささやかな間違いを訂正はせず、どこからか裁縫箱を調達してきて作業を始めたのである。


 EamsのLCM(これが何故、部室に有るのかは疑問だが、やや少数派に属する美的感覚を持ち合わせた教員の誰かが持ち込んだり、要請した結果なのだろう)に座り、足を組んだ小川不耳は、ワンピースの下に着用していた色落ちしカットオフされたデニムのショートパンツと、ホワイトとネイビーのボーダーTシャツの姿で、


「半袖…寒い……半ズボン…寒い…しからば…凍死…至らん…」と前かがみに、ロボットのような片言のイントネーションでぶつぶつと言っている。


 確かに、春の真っ只中と言えども、今日はひんやりとしていた。彼女は上下の歯を小刻みにぶつけて鳴らし、華奢な印象ながら肉付きの良い太ももに鳥肌を浮かべ、その毛穴はナイフで削ぎ落とせそうな程に隆起している。


「畳み方が分からないんだけど…」と小川から手渡されたスティレットナイフは、彼女の父親の所有物だという。恐らく違法な品に見受けられる。この手のスティレットは国内では事故が頻発したことから規制されているはずだ。


僕は、まるで知恵の輪を解くようにして試みたが、ボタンを押してみようとスライドを上下させようと無駄で諦めて返した。


彼女は「んあああ!!お父さんに怒られる!!」と発狂し、テーブルに振り下ろしてナイフを突き立てた。「さいあく!」


かなり古いテーブルで、その上で鶏の解体でも行われていたかの様に、あちこちが凹んだり引っ掻かれ、色々なものがこぼれ出来たシミは、木材の塗料の加減もあって赤黒く、時間の経過した血液を思わせた。

 

 落書きというものが一般にして薄汚い場所で行われるように(清潔とグラフィティは相容れない)、家具や道具も乱雑のうちに古く使い込まれると、誰彼も容赦なく酷使していくものだが、彼女にしては度を越していると言うものだろう。


「署名用紙だったら返すよ」

 

 僕は、電子レンジで温めたマグカップに入った白湯と、部室に置かれている紅茶のラインナップの中では割と品質の良さそうなティーバッグを差し出した。それはクッキー作りの天才であり、フルートを担当する女の子がイギリス旅行のお土産として買ってきたものだった。


その様子を見たコルネット奏者が、


「今度、部費で電気ケトルを買うことになりました」と嬉しそうに言い放って、再び作業に戻ると、程なく「いてっ」という声が聞こえた。


僕はいずれドリップ式のコーヒーが飲めると、少しばかり気分が昂揚した。


 小川は、こちらを見つめながらテーブルを指先で叩いて急かすようにし、ずっしりと重たい薄いグリーンのマグカップが眼の前に置かれると、


「ああと、紅茶かぁ」とぞんざいに感謝の言葉を述べ、目を伏せると署名用紙に視線をじっと注ぎ『校内売店でのロシアパン取扱に関する嘆願書』が読まれていることに、いくらか複雑な念を抱いている様子だった。


 僕はまだ、ロシアパンについては、その形状も味もイメージができずにいたが、


「ロシアパンだったら、駅前のコンビニやスーパーマーケットから調達してくれば良いんじゃないのかな」


「そういう訳でもないんだよ!」彼女は頭の後ろで両手を組み、足を組み直して、太ももを軽く揺らした「ま、分からないでしょうけどね」


「そんなに珍しいパンなの?」実に興味が湧いてきて、そう言えば昼食を抜いていることに思いあたる。


いつもならファストフード店で、300円程を投じて食事しただろうけど、書店に寄ったらトマス・ハリスの新作が平積みされているのを見つけ、思わず購入してしまった。


明日のお昼は、お母さんに弁当を頼まないと。いつも月曜日は売店にしているから面倒がるだろうな。


「いいえ、そうでもないよ」彼女はふと視線を上げて、何かを眺めている。三人のスカルラッティと見つめ合っているのかもしれない。


 僕は彼女の太ももを盗み見たが、カットオフされて解れたジーンズの裾の影にミミズ腫れが見えた気がし、視線をそらし、手元のカップを持ち上げて、また置いた。


 マグカップを持ち上げ「あっつ、こりゃだめだ」とテーブルに置き直している小川の実家は、彼女の父親が経営する江戸時代から続く宿場町に建つホテルだった。


長良ホテルは、数百年の歴史を守り続ける長屋造りの建物が並ぶ一角に、間口が二,三間ほどのコンパクトな建物が多い中、かなり大きな印象のする木造建築であり、一部は御影石張りになっていたが、これは数度の地震に見舞われ、そのたびに外装は張り替えられ、現在では戦後以降に設えられたものに殆どが代わっている。


 中学生の頃に社会見学で長良宿に訪れたときは、僕が小学生の頃に数週間の間、お祖父さんのことで追いかけ回してくるマスコミから逃れるために、その大正ロマンといった趣のホテルに滞在していたときの記憶から何も変わっていないようで、コンビニもさることながら、商店と呼べそうな食料品店も、それと分かるものは見当たらなかった。お土産屋はいくらでもあるのだが。


しかし、駅から高校までの道のりならば、コンビニも、朝から営業する大型のスーパーマーケットもあるわけで、彼女がロシアパンの売店での扱いを署名を集めてまでして望む理由は、にわかに想像するのは難しい。単に酷く横着なだけかもしれない。


「まぁ、北村になら話してもよかろう」彼女は署名用紙を折り畳んで小さくすると自分の腰元に降ろしたが、何かに気付いたようで、思い直してテーブルに置き直した。彼女が着ていたワンピースの左右にやや大きめなパッチポケットが付いていたことを思い出す。


「北村は『春の祭典』をご存知でしょうか」


「うーん…何だろう」記憶を辿っているうちにコルネット奏者が助け舟を出した。


「『Rite of Spring』ですよ。ストラヴィンスキーが20世紀初頭にクラシックバレー用の音楽として書き上げた傑作です。今度、この部でも吹奏楽用に編曲された抜粋を演奏するんですよ」


 彼は作業台の傍らで、スツールの上に揺れながら言った、


「1stのトランペットを吹いてる斉藤くんの家のお父さんは作曲家なんです、それで僕らのアイディアを面白がって下さり、編曲と構成を手がけてくれました。今は編成に合わせるために、僕らは率先して新しい楽器を練習しています。オーボエが一番大変ですよ。あ、そうだ北村さん、アルトクラリネットやりませんか?」

 

 アルトクラリネット? 聞いたことの無い楽器については辞退させて貰ったが、トランペットの4人組がいたずらな反抗心を燃やしているだけでは無いことが分かると、何だかホッとさせられた。ストラヴィンスキーの初演が済んだら、みんなトランペットを吹き始めるのだろう。


「は、意味わかんないし。全く違います。…ばーか!」小川は、今まさに自分のワンピースのボタン付けをしている相手に向けて容赦なく言った。


「春の祭典は山崎製パンが毎年春にやってるキャンペーンのことだから、松たか子さん知らないの?名女優だよ!」


「松たか子さんは知っていますけど…」彼は異様な剣幕に押され、困惑している「それとは、どんな関係が…」


 松たか子さん…それって、

「春のパン祭りじゃないの?」僕は率直に答えた。


「いいえ、違います」


(違うのか…)


「春のパン祭りは、既にTwitterに殺されたのです。いや正確には生まれ変わらされたのです」彼女はマグカップの中の真っ黒な液体から、ようやくティーバッグを引きずりあげると、キョロキョロし、また戻そうとしたので、僕は慌ててダストボックスを彼女の足元に置いた。


 小川には、眼の前で毒をもられようと平然と飲みかねない超然としたところがあり、それゆえに世話心を焼かされてしまう。

 

 彼女の説明するところでは、春のパン祭りはSNS上で”こじつけ”としか思えない理不尽な糾弾を受けたことが切っ掛けで、改名を余儀なくされたということだった。


そしてリニューアルされて「春の祭典」が生まれたのであり、彼女が署名運動を行う程に熱を上げているのもこのキャンペーンが大きく関わっているらしい。


「それまでは、全てのパン製品に貼られたシールを集めるとお皿が貰えたんですよね」彼女は両手を組み合わせると、その上に顎を乗せ上目遣いで話を続ける。


「しかし、春の祭典では、ロシアパンのシールのみが対象となっていて、そして10枚で景品が貰えるのです」彼女はスタッズが隙間なく打ち込まれて表面がギラギラの凶器になった指定カバンを開くと、中からいくつかの、手のひらに乗るくらいの細々とした品を取り出した。


「これは10枚で貰える景品のひとつなのです」

 カラフルで可愛らしいそれらの玩具が並べられていくと、テーブルの表面はずたずたで今やナイフまで突き立てられているその上が、何となく気の利いた雑貨屋の一角の様にも見えてくる。


「これはマトリョーシカです」と彼女は言い、5体のマトリョーシカを、モルモットでも誘導するような優しさで、僕の方にぞれぞれ一歩進めた。


「まず見てもらって分かるのが、この素材の独特さです」彼女は赤い物を摘んで持ち上げて左右に傾けた。陽光が反射してぬるぬると輝く。


「マトリョーシカと言えば普通は木で作られています。職人は大勢いることでしょう。海外輸出も盛んで、国を挙げての大産業ですから…そうロシアが存続しているのもそれが理由です」彼女は徐々に早口になって、マトリョーシカをひとつずつ持ち上げて見せる。


 僕はロシアがそれだけで存続しているとは思えなかったが、静かにしていた。


「安く作ろうと思えばいくらでも出来るはずです。でもこのマトリョーシカはベークライトで作られています。しかも山崎製パンが企画した現行品です。このミニマムなサイズ感にすることで、よりコストを下げて景品として実現できたのでしょう。それでも素晴らしい品です」

 

 それぞれのマトリョーシカは顔の部分に表情が描かれ、ボディは光沢のあるつるんとした質感で5体ともに色は異なるが、どれも深みのあるトーンは共通していた。


正に樹脂という言葉が相応しいコクのある風合い。僕は、何となく昭和の黒電話みたいな質感だねと言った。すると彼女は目を輝かせ、まさに当時の高価な家電製品にはベークライトで作られたものが多いのです、と答えた。


「このマトリョーシカは素材や風合いこそは、完璧なまでに高められていますが、残念ながら大きな欠点が有ります」小川は、マトリョーシカの一番小さなものを除いた、残る4つをそれぞれ腹部の中心から半分に切り離して、頭部を脇に置いていった。


「ご覧の通り、金型に問題が在るのか中の形がぐにゃぐにゃで、自分より小さいマトリョーシカを収めるだけのスペースが有りません」


 確かに、それはバリが残るというレベルではなく、襞がぐにゃぐにゃと這って内蔵でも見せられているかのようで気味が悪い。映画版のハンニバルで腹を割かれ吊るされた刑事から垂れ下がった長い小腸を思い起こさせる。


 僕は、それはもはやマトリョーシカとは呼べないんじゃないのかなと言った。そもそも、マトリョーシカの由来は、同名のロシアの寒冷地に生息するバラ科の樹木の特徴的な種子の表皮が何層にも覆いかぶさる様子から来ているはずだとも。


「詳しいですね。マトリョーシカの由来に通じているとは、私はあなたを見直しましたよ」彼女はゆっくりと頷いて、利き手側の髪をかき上げて耳にかけた。耳たぶの下でひし形の赤いアクリルが揺れ、表面を光が舐める。


「また噂では、ロシア管轄区域にある北海道工場で生産されているマトリョーシカは精度が高いようです。他のは、サンクト・ペテルブルグの昔カメラを作っていた工場で、この粗悪品が作られているみたいです。それはさておき…」彼女はカバンの中から、クリアファイルに収められた用紙を取り出して見せた。


「これは春の祭典の申込用紙です。この台紙にシールを貼って集めるようにできています」


と彼女は、折り畳まれたその台紙を広げ始めたが、アイロンが掛けられたようにきっちりと折り畳まれているのを完全に拡げ終わると、予想したサイズを遥かに越えて「テーブルには置けませんね」と立ち上がっている小川不耳がラウンドガールのごとく体の脇で見せる『春の祭典』の申込用紙は、厚底のレザーシューズを履いた上で身長が155cm程度の彼女が顔の高さに両手を掲げた状態で、かろうじて床には触れない程度の大きさだった。


そして、そこには指先ほどの大きさの丸い点線で示されるシールを張るためのガイドが、ビッシリと隙間なく並んでいる。


「恐ろしい量のシールが集められるようにできているんだね」僕は模造紙ほどのサイズの申込用紙を眺めつつ言った「全部を集めたらどのくらいになるんだろう」


「良い質問です、今ではあなたのことを気に入りつつ有ります」彼女は率直で、突き放した無表情で言い放った「さて、全て集めると何枚になり、何が貰えるのでしょう」


 僕は考えているふりをしながら、コルネット奏者の方をちらりと見た。まだ縫い終わっていないようだ。


 続く