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  • Kentaro Osawa

君の膵臓を食べたいⅡ_08

更新日:4月15日

「そうだなぁ、700枚くらいかな。いや、これほど大量なら切りが良い1,000枚かもしれない」


「ご明答です」彼女は申込用紙を折りたたみながら「そして1,000枚を集めると、ある特別な景品が貰えるのです」


「それだけ集めたら相当な金額になるだろうし…と言ってもせいぜいキャンペーンの景品のわけだから、ロシアの余ってそうな二束三文の土地でも譲渡されるんじゃないかな」


「それは馬鹿げています」と彼女は苛立った調子で、別のチラシをこちらに見せる。


そこには先程のマトリョーシカや、銀色のサソリ、プラスチック製のカメラなどが並び、それを指さして《もらえるよ♪》と描かれた吹き出しで無理やり言わされているのは、ラスプーチンの両目を剥いた肖像だった。


そして、より大きな項目が設けられているそのスペースには、ロシアパンに貼られているシールを1,000枚集めると、山崎製パンオリジナル『ウランガラスで造られた張り型(Taro from Hokkaido)』がプレゼントされることが明記され、添えられた写真には、翡翠のような青緑色をし、ややカーブした形状の、特定の状況に於ける男性の体の一部を生々しく象徴したものが写し出されていた。


「その…これって…」


「ウランガラスは放射性物質で、紫外線を蓄えて暗いところで、発光するようにできています」彼女は、写真の真っ暗な背景の中でアブサン色に光る『北海道の太郎』の男根図を指し示しながら「こんな風に。とっても合理的だと思いませんか?」


 黙っている僕に対して彼女は続けた。


「あなたは、こういった物が必要となる場面で、電気を消そうとしない凡百の男のうちの1人なのですね…よく分かりました」


「そういうわけでは無いけど」何か別の話題にでも移行しようと「でもこれって被爆したりしないのかな」


「あなたは友人の妻との浮気がどれほどの快楽を伴うかを知らない高校生男子の1人なのですね…よく分かりました」


「ちょっと何を言っているのか分からないよ…それに殆の高校生がそうだと思うし、君だって多分そうだ」


 5年前に男性の婚姻年齢が16歳にまで引き下げられた。


女性の婚姻年齢を引き上げて男性の18歳に揃える向きが優勢だったが、およそ10年前から世界各地で流行している肺病は、未だに安全なワクチンの開発と普及にも至らず、病原体は自らを強化し続け大量殺戮を繰り返し、一時的と思われていた平均寿命の低迷は歯止めが効かず、近年では状況が改善されない限りは、半世紀後には日本人の平均寿命は20世紀初頭の水準にまで落ち込むという研究結果も発表された。


「私が言っているのは、リスクを冒すことでのみ得られる、ありとあらゆる快楽のことなのです」


彼女は何処と無く見下す様子で言った。恰も、そういったことに関しては知り尽くしているとでも言うように。


「先程、ストラヴィンスキーの話をしていましたが、彼は最初からストラヴィンスキーだったわけでは無いのです。マリカーのドリフトとミニターボを習得する期間にあたる時期は不遇であり、実際に作品の出来も芳しくは有りませんが、後の飛躍は、その境遇そのものが彼の芸術家としての精神をより研ぎ澄まし、強化したことは想像に固くありません」


ここで彼女は聴衆の反応を確かめる演説者の如く(相手は僕と、恐らく小耳に挟んでいるであろうコルネット奏者との2人だけだったが)一呼吸を置いて、改めて鋭い視線をよこした。


それは微かな動揺を湛えているようでも有り、彼女はこの話にどうやって決着を付けるかを考えているのかもしれなかった。


「つまり、私が言いたいのは、平凡な道を捨て、傍目には奇妙な研究を重ねるリスクを抱えてこそ、もしその試みが芸術の形で達成されたときの、芸術家の達成感は計り知れないということです」


 彼女は得意げに見える。話に収拾が付いて安心しているのかもしれない。


とにかく何やらストイックで禁欲的な話題に向こうから持って行ってくれたことには、ささやかな感謝の気持ちを抱かずにはいられなかった。


 この流れに身を任せるつもりで、僕は然程こだわりも無く、彼女にこう言った。


「それは良い例えだと思う。僕はSwitchⅡもPlayStationⅩも興味が無いのだけれど、Nintendo64を未だに愛好しているんだ。最近のゲームは、初心者と上級者との差が、あまり開きすぎないように調整されているものが多い中、やっぱりNintendo64はプレイヤーの力量に沿った成果を上げられる楽しさが有るんだ。技術向上してライバルに差を付けていく喜びは、正にドリフトとミニターボの訓練によって得られるものだね」


「ちょっと何を言っているのか分かりません…」


(何で分からないんだ!?自分でマリカーの話をしたじゃないか…) 


「ですから、被爆のリスクを背負いながら行う自慰行為は快感もより強いと、私は言っているのです。セックスの比では無いでしょう」


 僕は唖然とした。


 しかし、彼女は淡々と話を続ける、


「私はこれが本当に欲しくて、それで考えてみるとロシアパンはひとつ250円です。サイズが大きいので、ネオソフト食パンみたいな価格帯になっているのですね。考えてみて下さい、これを手に入れるのに必要なコストを…250円掛けることの、先月に消費税率の改正が有りましたから1.2倍ですね…そしてシール1,000枚分を掛けて…」


 彼女はスマートフォンで電卓を弾いていたが、表示された数字は読み上げずに続けた。


「天文学的な数字となります」彼女はもう一度電卓の画面を眺めたが、すぐに諦めたようで「たぶん校舎と同じくらい大きな家が建てられる程の」


 僕は彼女のスマートフォンに表示されている、逆さまの数字を読んだ。《300,000,000》3億と表示されている。彼女には、とにかく途方もない金額になるとして理解されたようだった。


「しかしどうでしょう。もし売店でロシアパンの取扱が開始されたとしたら。我が校の生徒数は1,000人弱です。一日に売店を使う生徒が500人いるとして、そのうちの2%がロシアパンを買うとします、すると…彼女は電卓を弾き「長く掛かっても半年以内に1,000枚が集まる算段となります」


「その計算は正しいんだと思う。500人の利用者数も、2%も妥当な気がする。でも皆からキャンペーンシールを譲って貰うのは大変そうだけど」


「その点は、努力あるのみです。これから、私は昼食は前の時間に済ませてしまい、売店が開いている時間を全て監視と交渉に充てようと思っています。また商店の店員さんを買収することも考えています。私は実家の手伝いでバイト代を貰っていますから、充分な額を渡すことができるのです」


 彼女の実家は歴史のある宿場町にホテルを経営しているが、バイトでどのくらい稼いでいるのかと、僕は尋ねた。


「繁忙期になると、土日は返上で仕事の手伝いをすることもあります。また平日も家に帰ってから1時間ほど手伝うことがあります。ですから多いときでは月に30万円ほど貰っています」


「ちょっとまって、それはかなりの額だと思うよ…ところで小川はそれをどんなことに使っているの?」


「この間、気に入った墓石が広告で目に留まったので、生前墓を購入するのに200万円使いました。後はピーナッツバターを買いました。まだ充分な額の貯金が有ります。無駄遣いはしません」

 

 僕は、小川の間違った計算を正して、ロシアパンを1,000個購入した場合に掛かる正確な費用を彼女に示して見せた。


「ほら30万円で貰えるんだ」


 これに小川は面食らった様子で、並んだ数字を眺めていた。


「私ったら…」彼女は嬉しさのあまりか僕の両手を撮って上下にブンブンと降った「ありがとう!!」

 

「いや、僕はただ簡単なアドバイスをしただけだよ…30万円分のロシアパンを購入するなんていう、途方もない方法だけど」


「いいえ、至って現実味を帯びています!」


「そう、君ならそれが可能だからね」僕は一杯の紅茶を飲み、気配で作業デスクの方へ振り向いた。コルネット奏者がワンピースの両肩を掴んで拡げ、その仕上がりを満足げに眺めていた。


「ボタン付けが終わりましたよ」彼は半分に畳んだワンピースを腕に掛けてこちらへやって来る。「我ながら上出来です。小川さん、どうぞ」


 小川不耳は「どうもね」と言って受け取ると、すっかり緩んだ表情のまま仕上がりを見ていたが、徐々に疑わしげな表情に曇り始めた。僕は、嫌な予感がした。


「ボタンが2mmくらいずれてる!」彼女は、ワンピースの胸元のボタンを指さして言った「アンダーカバーの10年前のコレクションをデッドストックで入手したものなのに!」


 ここから見る限りは何ら問題は無さそうな仕上がりだが、彼女にとっては不服らしい。


「気に入ってたのに…しかもこの出品者さんは《20年前に将来転売する目的で購入したものです》って正直に商品説明するような人物でした…。それは、コンディションが保証されているようなものです…そして本当に昨日出荷されたばかりのような、まさしく新品のままの姿で家にやってきたのに…2週間に一回しか着ない約束で、大切にしてたのに…」


「すみませんでした」コルネット奏者は言うが、小川は聞いていない様子で、立ち上がり、首元のボタンを3,4つほど外したワンピースを、上からスポンと被るようにして着用した。


それは彼女にはよく似合っていた。鋭く差し込む西日がボタンに反射し、ボタンは縦一直線並んで見えた。それは全くずれているようでは無かった。


彼女は春の祭典の申込用紙を小さくたたむと、左側のポケットに仕舞い、テーブルからイタリア製のナイフを引き抜いて、それを片手にぶら下げたまま、ふらふらと防音ドアの方へ向かった。


僕は後ろから付いて行ってドアを先に開けてやった。彼女は無言でこちらを見つめると(少し涙ぐんでいたが)「今日たしかNHKニュースの最終回」と言い残して去っていった。


そんなことが有り得るのだろうか?僕は、彼女が冗談を言うような人物かどうかは、ピンと来なかったが、恐ろしい勘違いを起こしているだけの気がした。


EamsのLCWにしょんぼりと座っているコルネット奏者に向かって僕は言った。

「気にすることないよ。小川は少し神経質なだけだよ。とても綺麗に仕上がっていたと思う」


「正直、へこみました。自分では相当上手く言ったと思ったんですけど」彼はため息を付くとポケットからスマホを取り出して、それから指紋認証が全く反応しないと愚痴を漏らしていたが、やがて「そうだ、昨日、硫酸で親指の指紋が消えたんでした」と言った。


 僕は目眩を覚えながら、口を開いた。

「それはどうして?」


「実は、西ドイツ製のコルネット用のマウスピースを古道具屋で買ったんですが、内部が錆びてギザギザになっていたので、硫酸で一気に流そうと思って。でも表面が燃えるように煙を上げて溶けていったので急いで跳ね除けたんですが、そのときに火傷をしました…ほんのちょこっと触れただけで、これです」と彼は右手の親指をこちらに見せる。


「おぅ…それは凄いね」胎児のまぶたを思わせる赤黒い変色に骨が透けて見えるようだった。彼がサムズアップして見せているのが、余計に陰惨な印象を与える。


 僕は部室を見回して、彼に帰宅する旨を伝え「お大事にね」と言って、重たいドアに体重を預けるような格好で開けて外に出た。


 空気は乾いていて、山の方から流れてくる爽やかでひんやりした空気と、すぐ側に生えている金木犀の花の香りとが混ざり合い、心が洗われる気がした。


 人生は深刻になりすぎてはならない…僕は家に帰ると、誰も居ないだろうと想像して、少し気楽なような、寂しい気持ちがした。


 体育館の渡り廊下の上に置かれた土足者用のスノコを小刻みに突っ切って、ガタガタと音を立てて中庭に出る。


両側を4階建ての後者がそびえ、見上げると圧迫感を感じる。


僕は閉まっている売店のシャッターを眺め、小川が30万円を払ってでも(或いは全校生徒の一人ひとりをあたる覚悟での署名活動をしてでも)ウランガラスの張り型を欲しがっていることに複雑な念を抱いた。つまり彼女は何を欲しがっているのだろうか。


 赤松が曲がりくねって生える正面玄関に出ると、門柱の向こうに人影を見た気がした。


僕はそれが誰であれ、そこを通り抜けるのに少し抵抗を覚え、むしろ近道になる理科室の前を通り抜けた別の出口から通りに出ようと方向転換をした。


するとバタバタっと足音が響き、こちらに向かってくるので、慌てて振り向くと小川だった。


「私に気付いて逃げようとしたのですか」彼女は流石にスティレットナイフはカバンに閉まっていた様だが、独自の殺気立った気配は隠されていない。


「いや、休日の高校の正門に陣取っている人って、あまり印象が良くないと言うか…」この発言は曖昧さが勝っていた、彼女が意味を解釈し何らかの反応を示す前に(彼女の場合は、幼稚な罵り言葉を叫ぶのだろうけど)「つまり、もし学校外の、何か企てているような人だったら、気まずいなって思っただけだよ」


 彼女は納得しているようだった。或いはフォローするまでも無かったのだろう。


「とにかく、私は、このところずっと思い悩まされてきた春の祭典の問題が一気に解決されて、本当に気が楽になり、嬉しい気分です」と、彼女は視線を外してそして「北村には感謝しています。それで、もしお腹が空いていたら食事を奢って差し上げたいのですが、どうでしょうか」


 そう言われ、僕は、相当な空腹状態にあることに気付いた。


かと言って帰宅しないことには食事にはありつけない経済状況を、作家トマス・ハリス氏によって招かれていたのだから、断る理由は見つからなかった。


「うん、ありがとう。実は相当、お腹が減っていたんだ」


 しかし、そう答えた後に、僕が小川について周囲から色々と聞かされていることからして、二人で食事をするのは果たして大丈夫なのか、具体的な理由の見つからない不安が胸を過って、いくらか息が詰まる様だった。


「それじゃあ駅前の方へ行きましょうか。北村はそっちに住んでいたよね」


「うん、決して遠回りにはならないよ」


 僕らは駅前まで向かって商業施設の最上階のフードコーナーを見て回った。


ときどき家族で来るけど、同じ高校の女子生徒と一緒にここに居るのは少し不思議な感じがした。


小川はある店の前で足を止めて「ここにしましょう」と返事を待つこともなく、その中へ入っていった。


僕は後に着いてのれんを潜る。一見して何の料理を出す店かは分からなかった。


こういったフードコーナーに入っている店といえば、王将やサイゼといった有名チェーンが大半だが、この店は、覚えのある特徴は何も無く、そして一般に理解されるような、特定の料理と結びついた視覚的なイメージの一切が排除されている様だった。


それは、むしろ別のフロアに有るような、文具から洋服までを売っているあの無個性な売り場の印象に共通するものがある。


「コニチワ、ニメイサマノヨウニ、ミウケラレマス」


 厨房から駆けつけた黒人の男性が片言の日本語で尋ねた(?)。客席を見回すと、まだ時間からして疎らでは有るが、客層は皆外国人の様だった。


 テーブル席に案内され、僕らは向かい合って腰を下ろした。

「ねぇ、ここって何の料理を出すお店なの?」メニューも見当たらず、そして他のお客さんたちは、何やら肉料理を食べている様だが、いまいち見慣れない形をしている。


続く